ジュディス・バトラー「平和とは戦争への恐ろしいまでの満足感に対する抵抗である」『現代思想』2006年10月号
- 4月30日
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ジュディス・バトラー「平和とは戦争への恐ろしいまでの満足感に対する抵抗である」
[聞き手=ジル・ストウファー](訳=西亮太 解題=新田啓子)『現代思想』2006年10月号、pp.8-22。
哲学と平和の関係って?
私たちは他の人に暴力をふるっていいのか、私たちは暴力などの自分の行いをどのように扱い描写するのか。
これは哲学的な問いである。
9.11後、合衆国は「傷つけられた強さと優越性を『回復』するために『衝撃と恐怖』作戦に努めている」(p.9)
=痛みや喪失といった感覚の麻痺。
=自分の痛みや喪失の感覚の麻痺によって、他者に強いている喪失に対する私たちの感覚(暴力や加害の感覚)も麻痺している。(p.10) cf. 『プリズンサークル』
=「自らの傷つきやすさを排除し、不可侵な自己を打ち立てよう」とするマスキュリニティ(p.10)
=これは実際は(自分にも相手にも攻撃される可能性を高めてしまうから)傷つきやすさの増幅。
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傷つけられたあとに復讐しないという倫理観を持つこと(p.9)
=「哀悼や服喪の、そして傷つきやすさの感覚に留まること」(p.9)
=なにもしないという豊かな行動 人文的行動力と言えるかも。加害と被害は対ではないという考え方。
=「傷つきやすさや嘆きと共に生きていく方法」ができれば全く異なった政治が現れる。
「私たちはどのような状況の下で他人に対して敏感になれるのか」(p.10)
…敏感
「苦痛を見て、もしくは知覚してそれに応答するということ」(p.10)
…他人
人間だけではない。「自己の外部への理解に対して応答する」こと、「外部つまりは世界を現在の自身の有り様に不可欠なものとして理解する」こと。
傷つきやすいということは、予想しない他者からの影響を受けやすいということ。
「他の人に対する私たち自身の何か浸透性のようなものを受け入れなければならない場合があるように私には思えます。」(p.11)
自分で選んで応答するという順序ではない。「もし政治的な応答責任を、意志を持つ主体に位置付けてしまうと、私たちは、自身の意思決定性や自己中心的な打算に先取りされることになる」という危惧(p.11)。
傷つきやすさに留まって何ができるのかをはっきりさせられれば、「個々人の意思というものとは異なったエージェンシーの観念を作り出すことになる」。(p.11)
…エージェンシー 人が人としていかに活動するか(p.15) 個人主義や自己決定という言葉よりも広い。
他人について
遠い戦地に暮らす他人にも影響を受けるのか。報道が「俯瞰的(パノラミック)な美学」で暴力を描くことによって、生の損失の理解が不可能になっている。「私たち自身がまるで地上では生活していないかのように」空中、上からの爆撃の映像。
cf.近美で見たプロパガンダ絵画。または宮地尚子の「環状島」
「『知らない人々に対する我々の責任とは如何なるものか』とか『なぜ私たちは、知らない人々に対する非-暴力の倫理に従わなければならないのか』といった哲学的問いに戻りたいのであれば、私たちはそれに先行する問いをしなければなりません。それは『知らない人々との関係は、そういった問いへの回答を不可能にするべく、主流メディアの中でどのように表象されているのだろうか』というものです。」(p.13)
「(『知らない人々』は)無限に離れたところで道徳的な峻別の帳(とばり)を通して表象されている」(p.13)
平和と普遍的な権利
私たちは攻撃的ではない、のではなく、むしろ攻撃的。
平和は戦争への誘惑を含む。「平和とは戦争への恐ろしいまでの満足感に対する抵抗である」
私たちには大規模な傷つけ好意を行う能力があるからこそ、平和が必要。
平和とは「傷つけられることへの感受性とともに生きよう」と献身的に努めること(p.14)
これは一人では成しえず、制度化して、「共同体の本質的特性の一部になるべき」。
「インターナショナリズム」
「いかなる国家もいかなる支配者も他者とのコンセンサスにおいて行動しなければならない」「完全に負けてしまうかもしれないプロセスに参加するということでもあります」「どんなことがあっても個人的で独立した利益を追求することはできない」
国家単位でその上位にインターナショナルを考えても国家の都合が優先されやすいのでは?個人の利益はどうしても追求してしまうからできないような制度化が必要。
cf. 国際的議会組織
ストウファー「ただ遠くにいる人々の生の喪失や苦しみを見ることができるようにするだけではなく、私たちは単純に生だけではないほかの種々の喪失ー意義深い、人間とは何か、といった自身の観念しょ拡張したがらない私たちの側の態度によって押し付けられれた文化的な喪失ーを生々しく思い描くことができなければならない」。(p.16)
JB「哲学の任務のひとつはーそれは非-暴力やインターナショナリズムの実践者、責任を追うべきメディアに係わる者にとっても同じですがー、人間が生の中で意味を見出す方法とその生に意味を与えるものに関する広範な概念を手にするための、真剣な文化翻訳の作業への従事であろうと私は考えています。」(p.16)
「当事者の壁」を前提としつつそれを学ばない理由にはしないという態度
人間化と脱人間化
「どの生が認知されるべきで、どの死が悲しまれ得るものなのかを示す言葉使いを操作するという行為は、私たちが暴力を加えているその人々を立つ人間化する」(p.17)
『アンティゴネ』のように哀悼を禁止することなんかできない。Antigone could not be commanded not to grieve.
殺された人々の「実際の生」については何も知りたくないという態度。cf. 倉田翠『娑婆身体表現クラブ』でも壁のなかのひとの「実際の生」を扱おうとしたものだったと思う。
囚人たちが不法な戦闘員だったから国際法でも保護されないとラムズフェルドは巧妙にごまかした。
「人権は、いかなる国家安全保障政策よりもより広域的で拘束力の強い正義の名において攻撃性を抑制するためにそこにあるのです。」(p.20)
cf.徐京植の慰安婦問題の指摘と同じこと。倫理よりも法が上位に置かれてしまう。
ストウファー 普遍主義は多文化を平準化してしまうのでは?
「それは文化翻訳の問題です。どの権利が普遍的であるか、もしくは普遍的であるべきかをはっきりさせようとする際、私たちは同時に多種多様な人々にとってその諸権利がどのような意味を持つのかを理解しなければならないのです。[...]その諸権利がどういった意味を持ち、どのような語彙表現によって多様な文化的立場のなかで理解されるのかを調べる過程は、普遍化の働きそのものを構成するものなのです。[...]地域ごとに異なっていなければならないものが、いかにしてそれでも私たち全員が同意できるものになるのかということであり[...]」(p.21)
過去に読んだものと関連づけて考えられそうなこと
・家族もイラクも、法の及ばない「脱人間化」がおきる
・責任を持つ近代的な主体を前提とできないこと(子どもや障害者、あるいは傷つきやすいということ)


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