あなたとわたしで問いを囲む #2
- 朝田沖陽 / Asada Okiyo
- 2024年6月1日
- 読了時間: 3分
とあるワークショップに参加することになって、初日を迎えるまえに考えたこと
▶︎手持ちの道具
写真(チェキ)
絵(落書き)
映像(いちどきり)
おどり(気分にまかせて)
ことば(書きたい)
拓本(興味あり)
いまいつもまだまだもうずっと
町のうごき
▶︎素朴な疑問
・歩行
生活圏での歩行(通勤、散歩)は、今回の会場ではできない。今回の歩行はどのように異なるのか。
歩行も多様である。観光もあれば冒険、踏破を目指す歩行もある。
・創作
キュレーションとクリエーション(創作)の違いを、有意義な学びのために、どうやって意識するべきだろうか。でもたぶん調査者、作家、編者の往来をやってみたいんだろう。
▶︎おもいつき
これまで10年くらい意識してきたドラマトゥルクというありかたと、ここでキュレーションと呼ばれていることとのあいだにおおげさな区別やポジショナリティは不要だ。簡単に整理しておけば、違いは物理的で空間的なキュレーションに対して、俗人的で時間的なドラマトゥルクということになる。
キュレーション
展覧すること。物理的な芸術作品を扱う。
物理的な芸術作品を空間的・視覚的・テーマ的に関係づける。
ドラマトゥルク
プロジェクトを進めること。ある劇場での1年間のプログラムの構成。創作のチームの形成。
物理的な芸術作品よりも生身の人間と人間を、時間的制約のあるコミュニケーションにおいて関係づける。
しかし物事をややこしくするような区別は避けたい。両者に通じるのは、なにかを味わうときの、相手との距離感や前後の流れの提案をするということだろう。どれくらい離れて作品を鑑賞するのか、どんなふうに体を使うのか、どんな時間をどれくらい長く過ごすのか。(このとき、国立西洋美術館で見た弓指さんの展示が強く連想されている。大きな絵から小さなイラストまで、どんな距離でも楽しめるものだった。丁寧に言葉を読んでもいいし、読み飛ばしてもキャッチアップできる。)
以上のように整理したとき、キュレーションに比べて、ドラマトゥルクのほうが、裏方のひとりにすぎないような印象を持つ。やっぱりキュレーションに相当するのは演出なのではないか。キュレーションは空間を支配し、演出家は時間を支配して、スペクタクルをこれでもかと見せつける力を持つ。ドラマトゥルクは関わる相手に委ねるようなヴァルネラビリティを感じる。あるいはドラマトゥルクはリアクショナリーなイメージをわたしは強く持っている。
しかしやはり、まさに、このワークショップで掲げるのは、キュレーションに「支配的」であるよりも「リアクショナリー」であることを求めるということなのだと気づき直す。そしてこの点こそ、この機会がわたしにとって意味を持つ理由である。歩くということ、身体で触れ、感じ、反応すること、それを言葉にするところから知を実践すること。そうやって反知性主義についても回路を見出したい。
とりあえずの目標は、なにかを味わうときの相手との距離感や前後の流れの提案をすること、言い換えれば、わたしとあなたでいっしょに取り組む問いの提示を通して関係を結ぶこと。一般的なキュレーションが空間とテーマを素材として作品たちを結んできたところから、歩行と言葉と映像を素材にして「関係づけ」のありかたを模索しよう。
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